早く大人になろうとした理由 ― 家庭の緊張と「独立自尊」が生んだ強さと歪み
中学に上がった頃から、早く大人になりたいと願っていた記憶があります。家庭の空気がどこか張りつめていて、それがなぜか私の責任のように感じられたのです。
悲しげな母、父に反発する兄、泣き虫の妹。家族を守ることができる、しっかりした人間になりたいという思いを胸に秘めていました。
その頃から、同級生と過ごすよりも、一人で本を読んだり、音楽を聴いたり、通信教育の教材に黙々と取り組んでいる時の方が心が落ち着きました。胸の奥の劣等感や焦る気持ちに向き合っている感覚を得られたからだと思います。
こうした思いは、大人になってからも消えることはありませんでした。
今は休養中の身ではありますが、「独立自尊」という言葉を心の中で大切にし始めたのは大学生の頃です。福沢諭吉の言葉と知ったのは、もっと後になってからのことでした。
どんな場所でも生きていけるように。どんな環境にも流されないように。自立した人間でありたいと、いつも自分に言い聞かせていた気がします。
振り返ると、こうした心構えが認知の歪みにつながったのだと思います。その一方で、この姿勢が後の様々な経験への扉を開き、最終的には、私と配偶者独自の生き方を見つけていく土台にもなったと考えています。
そして、子ども時代の記憶の中には、今になっても忘れられない他者の人生がいくつも刻まれていることに気づきました。
厳しい環境で生きる子どもたち ― 辛いのは自分だけではなかった
子どもの頃、私よりもはるかに厳しい環境で暮らしていたであろうクラスメイトたちがいました。大人になり、人生の曲がり角に立った今、あの子たちの境遇に想いを馳せることがたびたびあります。
幼い頃、人は死んだらどうなるのかと考えて、途方もない恐怖心に襲われたことはありませんか?
私の場合、どんなに考えても答えが出ないこの問いに囚われるたびに、なぜか広い宇宙の暗闇を、たった一人で漂う自分を思い浮かべました。その圧倒的な絶望感や孤独感に慄いて、頭を振り払うようにして、いつもそこで考えることをやめました。
きっと、あのクラスメイトたちも、私が死を想像して感じたのと同じくらいの恐怖を、日々抱えていたと思います。いや、それ以上の困難だったかもしれません。
母親の逮捕で転校した同級生 ― 子どもが背負わされた重荷
小学生の頃、同じクラスにDさんという子がいました。家も近所だったので、よく一緒に遊んで過ごしました。とても聡明で勉強がよくできる子でした。しかし、彼女はある日突然、転校してしまったのです。彼女のお母さんが事件を起こして逮捕されたからです。
その数日前、私の父がその出来事を伝える新聞記事を見せてくれたので、私は彼女の転校の理由を知っていました。新聞の片隅に、わずか数段の記事として載っていました。当時の私は、その記事の内容を理解できるかどうかぎりぎりの年齢だったと思います。
転校前、Dさんは荷物を取りに一度だけ学校に来ましたが、教室には入りませんでした。代わりに、担任の先生が荷物をサブバッグに詰め、廊下で彼女に手渡したのです。
その際、先生はまるで我が子の不幸を嘆き悲しむように、大粒の涙を流しながらDさんに「がんばるんだよ」と声をかけていました。Dさんは泣くことなく、少し落ち込んだ表情でただ頷いていました。私はあの光景を忘れることができません。
Dさんが転校する理由を知らないクラスメイトも多かったため、先生とDさんのやりとりを見て「どうして?」という空気が教室内に漂っていました。
意地悪な女の子が、「あのねえ、Dさんのお母さんがねえ」と言い始めたのです。私は、その子が言ってはいけないことを言おうとしていることを察知して、ドキドキしたことを覚えています。
その後の記憶はありません。私がその意地悪な子の発言を止めたわけではないと思います。一方で、その子が最後まで言ったのかどうか定かではありません。
父親が家を出ていった同級生 ― 子どもが語った家庭の悲しみ
お父さんが家を出て行ってしまったEさんという子もいました。
あるクラスメイトの家にみんなで集まって遊んでいた時、そのお宅のお母さんがおやつを出してくれました。その際、経緯は覚えていませんが、それぞれの子が自分のお父さんの話を始めたのです。
Eさんの番になった時、「うちはお父さんいない。出て行っちゃった」と小さな声で言いました。Eさんはおとなしくて優しい子でしたが、いつも割と無表情でした。この時も淡々と、私が恐ろしいと感じることを言ったのです。
おやつを出してくれたその家のお母さんは即座に、「そうか、そうか。聞いて悪かったね。ごめんね」と大きな声で、でも明るく言って話題を変えようとしました。その声の勢いに、私を含む他の子どもたちは、それ以上お父さんの話を続けてはいけないと察しました。
しかし、Eさんはお父さんの話を続けたのです。
「お父さんは出て行く時、写真の自分の顔のところだけ全部ハサミで切って行った」
「お父さんの服とかも、お母さんが全部捨てた」
「お母さんがかわいそう」
これを聞いた時、言葉にならない感情が込み上げてきたことを今でもはっきり思い出します。幼い私がそれまでに感じたことのない種類の悲しみと恐怖でした。
Eさんはこの広い世界で、一人取り残されたような気持ちになったのではないでしょうか。どれだけ心細かったことか。
おやつを出してくれたお母さんが「そうか、そうか。大丈夫、大丈夫」と言って、優しく笑顔で話を引き取った記憶は今も頭から消えません。
子どもの口から語られた家庭の暴力 ― 大人になって理解した意味
小学校高学年の時、関西から転向してきたF君という子がいました。
彼はひょうきんなことを言う子で、口ぶりも優しかったのですぐにクラスに馴染みました。でも、どこか妙に落ち着いた雰囲気というか、子どもらしさをあまり感じさせない子どもでした。
ある日、F君が平然とこう言いました。
「前、母ちゃんがめちゃくちゃ殴られてた。服もビリビリに破れてた」
この言葉を聞いた時、体の奥を冷たいものが走ったような感覚を覚えています。他にどう反応したのかは記憶がありません。しかし、今であれば、F君の言葉が何を意味していたのか理解できます。
母を亡くした子に向けられた言葉 ― 「いない」という残酷さ
小学生の頃、お母さんを亡くしたGさんという子がいました。私はGさんと幼稚園も一緒だったので、Gさんのお母さんのことをよく覚えています。Gさんの妹に母乳を与えている光景すらも記憶に残っています。とても優しそうなお母さんでした。
Gさんのお母さんの死は、私が人生で初めて接した「人の死」であったと思います。
高学年の時、何かの口喧嘩の末、意地悪なクラスメイトがGさんに向かって、「しょうがないよね。Gさんは『いない』からね」と言いました。「いない」が何を意味しているのか私を含めみんなすぐにわかりました。その残酷な言葉に、私が代わりに泣いてしまいそうになりました。
ところが、Gさん本人は怒りで顔を真っ赤にして怒ったのです。彼女はとても強い子だったので、意地悪なクラスメイトを睨みつけていました。私の記憶はそこで終わっています。
社会の中で見つめ直した自身の経験 ― 苦しみを相対化する視点
地域柄も影響していたのか、このような思い出は他にもたくさんあります。しかし、ここで紹介した子たちはみんな、今もどこかで、それぞれの人生をなんとか踏ん張りながら生きているような気がするのです。私の記憶の中では、いずれも芯の強さをもった子どもたちだったからです。
あの子たちのことを考えると、私や配偶者の生育環境は、必ずしも特別に過酷ではなかったかもしれません。
言うまでもなく、苦しみや悲しみは絶対的なものであり、他者のそれと比較するものではありません。そうは言っても、社会全体を俯瞰して、その中で自分の立ち位置を見つめ直してみると、自身の経験や境遇が違って見えてくることもあると思います。自分の中に積み重なったわだかまりに折り合いをつけるためにも、この視点は役に立つような気がします。
苦しみの渦中にいると、苦しいのは自分だけだと思いがちです。しかし、冷静に考えれば、そうではないでしょう。誰もが何かを抱えているのではないでしょうか。
幸い、私にはそのような視点を取り戻す心のスタミナと、その土台となるいくつかの経験がありました。

