配偶者に絶望し、救われた ― お互いを知るための地獄の十数年
「もう会社辞めていいよ」
配偶者のこの言葉で休職を決めたことは2章3節で書きました。「理解あるパートナー」と思った人もいるかもしれません。
現実は真逆でした。
結婚してから休職するまでの十数年間、私は配偶者に振り回され続けました。心身は疲弊し、使い古された布切れのようになりました。
何度も結婚生活を諦めようと思いました。役所で離婚届ももらいました。しかし、首の皮一枚で思いとどまり、書類に記入することはなかったのです。大きな決断をする前に、私自身にもまだできることがあるかもしれないという思いが消えなかったからです。
休養期間は、そんな私たちにとって転機となりました。仕事を離れて以降、配偶者の度を超えた振る舞いを受け流すことができるようになったのです。心に余裕が生まれたからでしょう。
また、通院や読書で得た気づきを通じて、配偶者への向き合い方を工夫したことも功を奏しました。相手に対して理屈を言わず、ただ空気のように捉えることを心がけたのです。
長い間悩まされていた実家の家族の問題が落ち着き始めたことも幸いしました。
こうした私の変化は、配偶者にも徐々に行動変容を促したようです。情緒は以前よりも安定し、自分の生い立ちや内面と少しずつ向き合うようになったのです。
配偶者はいまでも些細なことで激昂することはありますが、その頻度は以前よりも少なくなりました。少しずつ落ち着きを備えつつあるように見えます。
とはいえ、配偶者との生活は、まるでライオンの檻の中で暮らすようなものでした。そのうえ、仕事と実家の家族の問題が重なりました。家でも外でも、私は気が休まる瞬間がありませんでした。
ただし、配偶者だけを責めるわけにはいかないのです。なぜなら、配偶者もまた複雑な生育環境という重荷を背負わされていたからです。本人の力ではどうすることもできない境遇で生きてきたのです。
別れなくて良かったと今は思います。では、なぜ私たちはこれほどの遠回りが必要だったのでしょうか?「お互いに人生経験を積む必要があった」というのが、現時点の私の考えです。
振り返ると、私も相手の心の傷を十分に理解していませんでした。私たちは似たもの同士だったのかもしれません。
結婚直後に私が失業した時、配偶者に物心両面で支えられたことは事実です。仕事で手がいっぱいの時には、家事を全て担ってくれました。翻弄されながらも、助けられたことは確かに多くあったのです。
パートナーとの関係に悩んでいる人は少なくないでしょう。別れを選ぶケースもあると思います。私も長い間、いつ音を上げてもおかしくない精神状態でした。
今日まで続いたのは、絶望をほんのわずかに上回る希望が、いつもどこかにあったからだと思います。この希望の源泉を言葉にできるようになるまで、十数年という歳月が必要でした。
配偶者が背負った重荷 ― 毒親、信仰、遺伝
結婚して一緒に暮らし始めた途端、私は配偶者の日常的な振る舞いに戸惑いを感じるようになりました。思考回路や行動様式が独特だったからです。結婚前には感じなかったことでした。
私が困惑を伝えるたびに、配偶者はまるで鬼のように険しい顔で、しかしなぜか涙を流しながら強く反論してきたのです。悪霊に取り憑かれたように目が吊り上がり、私には別人のように見えました。
その攻撃的なリアクションと言葉に込められた怒りのニュアンス、そして獣のような雰囲気に、私はただただ驚いて言葉を失いました。
取り付く島もないほど感情的になり、強い言葉で私を屈服させようと畳み掛けてくるのです。このようなことが続くと、理不尽さを感じつつも、「私が悪かったのかな」と錯覚しそうになる時がありました。今思うと、私は恐怖によって精神的に支配されかけていたのかもしれません。
結婚生活を続ける中で少しずつわかったことですが、義理の両親もまた、社会とのずれを感じさせる人たちだったのです。世間で言うところの「毒親」の正確な定義はわかりませんが、少なくとも私はそう感じています。
また、彼らはある新興宗教の信者なのです。つまり、私の配偶者はいわゆる宗教二世ということになります。
信仰については結婚前に配偶者から聞いていました。しかし、私は特段そのことが気にならなかったのです。信仰自体を批判するつもりはありませんでしたし、そもそも、あらゆる新興宗教について知識も関心もなかったからです。そのため、その信仰が配偶者の人格や社会性になんらかの影響を及ぼしている可能性など考えもしなかったのです。
さらに、後になって配偶者から聞いたことですが、義母は若い頃、知的障害がある人の福祉施設に通っていたことがあるらしいのです。
あくまで私の推測であり、専門家の見解ではありませんが、このような生育環境が配偶者の人格形成に影響したのではないかと私は考えています。
配偶者の人間観と共感の欠如 ― 結婚後に見え始めた内面の問題
結婚前、配偶者が内面の問題を抱えているようには見えませんでした。むしろ、淡白であっさりした性格だと思っていたくらいです。
ところが、結婚後、暮らしの些細な場面で、そのさっぱりした性質は別の面を帯びて見えるようになったのです。もう少し優しさや思いやりを持ってもいいのではないかと感じることが少なくありませんでした。
「人が嫌い」
日常生活でこの言葉を配偶者の口から頻繁に聞くようになりました。おそらく、配偶者の心の底にはこのような人間観があるのでしょう。落ち着きを備え始めた今でも、基本的にこの気質は変わらないように見えます。
「人の気持ちがわからない」
これもよく耳にする言葉です。もし本当にそうであるならば、配偶者の行動原理に関して少し腑に落ちるところがあります。空気を読まないような、その場にいる人をヒヤヒヤさせる言葉を口にすることが度々あるのです。今になってわかることですが、本人も自分自身の心の作用に振り回されていたのかもしれません。
そうだとすると、私が言う正論が配偶者の心に届かないのも無理はありません。配偶者の立場に立てば、価値観を一方的に押し付けられているに等しいからです。
後々知ったことですが、価値観の押し付けや頭ごなしな態度は、配偶者が両親からされてきたことそのものだったそうです。私も同じことをしていた可能性を考えると、「わかってあげられなくてごめんね」という気持ちが拭えません。

